Sunday, February 10, 2013

社会奉仕の学習



  娘が、米バージニア州にあるロングフェロー中学校の八年生(日本の中学二年生)のときから、コミュニティー・サービス(社会奉仕)の学習が始まった。
 彼女が持って帰った奉仕先のリストを見て、驚いた。参加できる"仕事"が、約六十件もあった。公園の清掃や図書館の本の整理、ちびっこスポーツ・チームのコーチ、慈善団体へ寄付された物品の仕分け、小学校で放課後に行われる補習クラスの補助教師、老人ホームでの話し相手など。
 「Hello, my name is ○○」
 リストから奉仕先を選んで電話で申し込むことから活動は始まる。電話のかけ方も学習の一つだ。
 娘が選んだのは、家の近くの老人福祉センター。めでたく受け入れてもらった初日、デイ・ケアに来るお年寄の給食メニューをデータ化する仕事を任された。
 初めての社会体験で緊張し、がんばりすぎたのか、夜中に高熱を出して、翌日学校を休むはめに。だが「しんどかったけど、けっこう面白かったよ」と満更でもない感想。
 ところで、ペンシルバニア州では、高校の卒業資格に六十時間もの社会奉仕が組み込まれていた。これに疑問を持った生徒や保護者が「義務化されたボランティア活動は強制労働。憲法違反ではないか」と訴え、連邦裁で争わ れた。結局、最高裁は訴えを棄却したが、今なお各地で論争が続いている。
 娘の場合は公民の授業の一環で、年間十六時間の無報酬活動。「良い点を取りたいから、やらないと仕方ない」。
 彼女が社会奉仕を始めてしばらくして、学校のカウンセラーから呼び出しを受けた。何事かと思って出向くと、「彼女はとてもよく働くので、大いに助かっています」と老人福祉センター長からのお褒めの言葉。
 時には、お年寄と一緒に昼食を取ったり、おやつにクッキーを貰ったり。「次は、いつ来てくれるの?」と向こうも期待し、世代間の交流も生まれた。
 サイエンスパーク「日本科学未来館」の館長で宇宙飛行士の毛利衛さんに会ったとき、「うちでも、ボランティアの学生さんらに大いに働いてもらおうと考えています」と話していた。日本の教育も変わっていく。(2001年7月28日)

                           

学校の安全



 のど元過ぎれば、熱さを忘れる、というのは人間の性であるが、学校の安全だけは、そうは行かない。2001年におこった大教大付属池田小学校の児童殺傷事件のような惨事が、再び繰り返されないという保証はどこにもない。
 日本の学校に勤める知り合いのアメリカ人の女性教師は、「もし、私があの場にいたら」と顔を引きつらせる。「いったい何ができたかしら。殺人鬼が教室の後ろから入って来て、子どもたちに次々襲いかかったら、教壇にいる私は手元の本を投げつけるぐらいしか、できないでしょうね」。ほとんどの教師は、拳法の達人ではないのだ。
 「学校の安全神話が崩れた」とメディアは口を揃え、「開かれた学校」の危険性を指摘するが、悪いヤツが侵入しようとすれば、何としても入るだろう。それに、校内暴力やいじめで、死者やけが人が出たというニュースもなくならない。
 米国では、学校での銃乱射事件が相次いだため、1998年十月に大統領がホワイトハウスで会議を開催、学校の安全が見直された。私の娘が通っていた米国の小・中学校も、来校者に対する管理が極めて厳しかった。正面玄関以外は外からドアが開かない仕組みになっていた。警官の巡回や、凶器の持ち込みを検査するシステムを持つ所もある。
 日本でも今回の事件を機に、防犯カメラを設置したり、警備員を配置したりする動きが出て来た。
 だが、学校の安全確保や危機管理が、米国と日本とで決定的に違う点は、米国では安全を総合的に捉えることだ。学校専門の安全コンサルタントが、各校の安全度を調査、地域社会との連携のうえで、短期・長期の戦略を立てる。
米国三十州とカナダに実績をもつオハイオ州のナショナル・スクール・セイフティ・アンド・セキュリティ・サービスィズの社長、ケネス・トランプ氏はその道十五年のベテラン。九九年には米上院で証言し、「いかにリスクを減らすか、合理的に考えることが必要だ」と説いた。
 犯人捕捉用のサスマタやインターフォンを設置しただけで、学校の安全が確保されるわけではない。ケネス氏は、インターネットのホームページ(www.schoolsecurity.org)で力説している。
(2001年7月7日)

お役所仕事 苦い経験から知った真実の姿



 ワシントン支局から20001年のある日、厚ぼったい封筒が届いた。開けてみると、米国務省から私宛の郵便物が入っていた。中身を見て驚いた。私と妻と娘の三冊の古いパスポートだったのだ。
 どうして、こんなものが転送されて来たのか?
 これには、ややこしい事情がある。実は、滞在ビザの期限が2000年一月に切れるため、1999年の十一月に更新申請し、三冊のパスポートを国務省に送った。クリスマス・シーズンやY2K問題で、ビザの更新に三か月ほどかかると言われたが、三月の声を聞いても、国務省からは音沙汰がなかった。ビザ発行オフィスに再三電話を掛けたが、自動音声だけで取り付く島もない。
 米国外での取材の必要性もあるので、思い余って国務省のプレス担当に相談した。問い合わせの結果は、「ビザ発行オフィスは一月中ごろに、パスポートを普通郵便で返送した」というのだ。
 大切なパスポートを書留にしないなんて、事務怠慢もはなはだしい。国際テロリストの手に渡って悪用されたら、どうするんだ。さすがに、頭に来た。「そんなことを言っても、僕は受け取ってない。本当のところ、国務省内部で紛失したんじゃないのか?」
 プレス担当は、真っ赤になって反駁した。「国務省の管理は厳重だから、そんなことは絶対にない」
 私は仕方なく、日本大使館に行って三冊のパスポートを再発行してもらい、ビザの再申請をした。今度はプレス担当を通じて、直接に受け取った。
 悔しいのは、パスポートの再発行費用だ。友人のアメリカ人弁護士に相談すると、「パスポートは国に帰属するので、個人は損害賠償請求できない」という。大使館から国務省へ抗議するのが関の山だそうだ。
 だが、以前のパスポートを手にした今、国務省の説明が真っ赤なウソだったと分かった。それにしても、なぜ今ごろになってぬけぬけ送り返して来たのか、全く不明だ。政権交代で、役所の大掃除でもしたのか。けだし、これが米国流のお役所仕事かもしれない。
 国民の税金が競走馬に化ける日本の外務省も困りものだが、他国の『資産』を紛失して顧みない国務省も、改革の余地がありそうだ。
  (2001年6月30日)

Friday, February 8, 2013

Father's Day We are Dads!



  When I asked my wife, "What day is next Sunday?" she impressed me by replying, "It's Father's Day." However she immediately disappointed me by adding, "It's just Mother's Day's extra."
  As for Father's Day's present, popular items in Japan are necktie, dress shirt, and other necessaries of office work. I think they send a message saying, "Dad, Work harder for the company to get more money!" In contrast backpack-typed diaper bag, calendar with family pictures for office use, and T-shirt hand-dyed by kids are at the top of the gift list in the U.S. American daddies appear to be devoted to their family. I must reconsider the difference of the social value between both countries.
  Father's Day began in the U.S. of the Progressive Era early in the 20th century. The establishment of this day was strongly promoted by Mrs. Bruce John Dodd of Spokane, Washington. In 1910 she celebrated in church the birthday of her father who had raised 6 children by himself after the early death of his wife. In 1924 President Coolidge made the Father's Day a national event. Since then every year on the third Sunday in June fathers have been honored throughout the country. In short it is the day family members thank for their father, who has great responsibilities and strong affection for his family.
  Unfortunately father is losing his authority and dignity in the U.S. as well as in Japan. American father should bear the blame for all of the family troubles such as drug abuse, teen pregnancy, delinquency, and domestic violence.
  Recently 19-year-old twins of President Bush were cited one after another in underage alcohol violations. Columnist Majorie Williams writes about one of the twins in Washington Post, "She seems simply like a daughter struggling with an outrageously magnified version of any child's resistance to a parent's demand - be it a demand made directly or a demand made by the circumstance of the presidency -- that her top priority be to reflect well on him."
  Media reported intentionally that Mr. Bush had been a drunkard with a drunken-driving history until he had made a decision to quit drinking to become a President.
  However, Mr. Bush said in a speech to "National Summit on Fatherhood", "Promoting fatherhood was a commitment I made as governor (in Texas). It's a commitment I make as President, and it's a commitment I have made every day since our little girls were born in Dallas, Texas. Since that day, Dad has been the most important title I have ever had."
  Dad prays anytime and anywhere for the happiness of his kids.
 

父の日



 「この日曜日は何の日か知っているかい?」と女房に尋ねたら、感心なことに「父の日でしょう」と答えた。が、その後がいけない。「母の日の付け足しじゃないの」   
 父の日のプレゼントといえば、日本では、ネクタイやワイシャツなどのサラリーマン・グッズが定番だ。「お父さん、もっと働いて」というわけ。アメリカでの人気は、バック・パック型のオムツ入れ、オフィス用の家族カレンダー、子どもが染めたTシャツ、家族アルバムなど。いずれも、マイホーム・パパを彷彿とさせるものばかり。
 この差はいったい何なのか?
 父の日が誕生したのは、前世紀の始め、革新主義時代を迎えた米国である。一九一〇年に、ワシントン州に住むソナラ・ドッド夫人が、男手一つで六人の子供を育て上げた父親に感謝するため、教会で彼の誕生日を祝ったのが始まりという。父の日が国民的行事となったのは、クーリッジ大統領時代の二四年以降。その後、正式に六月の第三日曜日と決められた。
 この日は、一家を支える大黒柱である父親の責任と愛情に感謝をささげる日であるわけだが、今や日米ともに父親の権威は大きく揺らいでいる。米国では、青少年のドラッグ乱用、十代の妊娠、家庭内暴力など、家庭にまつわる事件の原因は、何でもかんでも父親のせいにされる。
 ブッシュ大統領の十九歳の双生児姉妹が巻き起こした飲酒騒動について、ワシントンポスト紙のマジョリー・ウイリアムズさんは「この事件は、大統領の子どもだからという過大な要求に対して、反抗がエスカレートしたのだ」と指摘した。さらに、メディアは「ブッシュ氏は大統領になる決心をするまでは飲んだくれで、飲酒運転の前歴まである」とはやし立てた。
 だが、ブッシュ氏はこのほど、「全米父親サミット」で挨拶し、「私は、テキサス州知事の時も、父親としての役割を果たして来たし、大統領になっても果たして行く。二人の娘がテキサスのダラスで産まれた日から、ダッド(おとうちゃん)というのが、私が得た最も大切なタイトルなのです」と語った。
 父親は、いつでも、どこでも、子どもの幸せを願っているのです。
  (2001年6月16日)

Thursday, February 7, 2013

ネットの出会い



 米カンザス州に住むケーシー・ニコルさんという十九歳の女子高生が五月十五日(2001年)、二年間に渡るガンとの闘いの末に亡くなった。その闘病日記を掲載して来たインターネットのホームページ(HP)が、「愛と喜びをありがとう」というメッセージとともに閉じられた。HPにはブロンドの美しい女性の写真が載っており、日記に感動した人たちが、この一年間に何千もの励ましの電子メールやプレゼントを彼女に贈った。
 だが、不思議なことに、誰一人として実際にケーシーさんに会ったことはなかった。すべてのやり取りは、ネット上で行われていたからだ。そして、香港在住の作家がケーシーさんに深い同情を寄せ、一目会おうとしたことがきっかけで、すべてが明るみに出た。
 実は、ケーシーさんは、全く架空の人物だった。その闘病日記と電子メールの返事は、カンザス州に住む四十歳の主婦の創作だった。連邦捜査局(FBI)は、ネット詐欺の容疑で調べたが、その主婦が受け取った金品が数百ドルに過ぎないため、捜査を打ち切った。
 ネット上での出会いは今や世界的な潮流だが、バーチャル・リアリティを現実と混同しがちなところに、大きな落とし穴がある。
 「ネットの上では、相手の顔が見えないので、人は思いきって本音を表現できる半面、自分をいかようにも装えるから、人を騙すのも簡単だ」と「オンラインの誘惑」の著者、エッサー・グインネルさんは言う。
 ネット上で、男女ともに年齢をごまかすのは、もはや当たり前。経歴詐称も珍しくない。性別を偽る「ネットの女装」まである。電子ボードで人のチャットや電子メールを付け狙う「ネット・ストーカー」もいる。そして最悪のケースが、ネットでのやり取りの延長線上の現実世界で起る、出会い系サイトでの詐欺やメル友殺人だ。
 だが、われわれは来た道を引き返せるだろうか?
 ネット上のコミュニケーションを止めることなど出来ないのだ。グインネルさんは言う。「ネットの出会いは、活字のやり取りだけだから、驚くべき早さで親しさが増す。だが、それは現実でないことを十分わきまえる必要がある」
 (2001年6月9日)

Wednesday, February 6, 2013

トレンドな散骨



 小説「マディソン郡の橋」は、アイオワ州の片田舎に住む農家の人妻と行きずりの写真家との秘められた恋物語だが、そのクライマックスで、ヒロインは死に際し「死後火葬にして、その骨灰を橋のたもとに撒くように」と遺言する。恋の舞台で、永遠に眠ることを望んだのである。
 米国では土葬が一般的だが、「葬式は消費者の最後の権利」という消費者団体の報告書などによると、最近は墓地の不足や、コストが割安なことから、火葬が急増している。この四半世紀で何と五倍に増え、昨年は全米で六十万件を超えた。死者四人に一人が火葬された。
 日本では、火葬に付したあとの骨灰は、遺族の手で一部を骨揚げして埋葬し、残りは業者が処分する。ところが、米国では、大人一人で二、三キログラムになる骨灰を、プラスチック容器に入れて遺族に渡す。半数近くは、それを骨壺に入れて暖炉の上に置くなど、家で保管するそうだ。
 最近のトレンドは、海や山に撒く散骨だ。遺族が、船や小型機をチャーターして自ら散骨に行くか、業者に代行してもらう。
 だが、ここに厄介な問題が出てきた。首都ワシントンに近いチェサピーク湾でバーベキュー・パーティーを楽しんでいる人々に、突然砂ほこりが降りかかった。調べてみたら、近くで行われた散骨が、風向きの加減で飛んできたのだ。砂浜に直接骨灰を撒く不心得者まで現れ、近隣住民が悲鳴を上げたというニュースが話題になった。
 ところが、インターネットを調べていたら、面白いホームページを見つけた。ジョージア州のベンチャー企業が、骨灰をコンクリートに混ぜてブロックをつくり、これを海に沈めてサンゴ礁を造るプランを進めているのだ。一・二年たつと「骨灰ブロック」にサンゴや海綿が付着し、数年で魚たちの楽園になるという。企業の名前も「エターナル・リーフス」(永遠のサンゴ礁)。大阪・天王寺区にある一心寺の「お骨仏」に匹敵する名案だ。
 死後もあの素晴らしい出会いの場所で眠りたいという「マディソン郡の橋」のロマンティシズムの向こう側で、迷惑している人があることも心すべきとの教訓が生かされている。
  (2001年6月2日)