Wednesday, January 30, 2013

Study English



   "As you have lived in America for five years, your English must be very good. Is there any good method to master English? If any, please teach me it." After returning to Japan, many people have asked me this question. AlthoughⅠdon't think it is their concern whether I am good at English, mastering English seems to be nation-wide concern. And also those people who have questioned me intend to pursue an easy way to master English without any hardship. So I will answer that question.
  " There is no such a method."
Mastering a foreign language is a colossal task, and it is obvious from our experience in learning English at middle school, high school, college, and yet being far from mastering it.
  "But it is because the method was bad."
No, it is not. However excellent the methods might be, acquisition of a language requires hard training and if you stop training, you will begin forgetting the words you have once acquired.
  However, suppose you made constant efforts to study, and then, is there any good method to help you learn?
  I can answer it, " Yes, there is."
  "What is the method?"
  My recommended method is recitation. If you memorize and recite the whole sentences of an English conversation book that you have at your hand, you don't need to lose your bearing at airport, hotel, and department store in America.
  The current English education in Japan is focused on conversation rather than on writing or reading. We have to reconsider the efficiency of recitation, which we ever valued.
  During my stay in America, I have met few American who are good at foreign languages. English is the native tongue to them, and they believe that English might be able to be accepted around the world.
  My best friend, Scott Stuwart, having experience of teaching English in Japan for six years and his wife being Japanese woman, one day asked me, "Is there any good method to master Japanese?"
  "You surprise me! How did you master English?"

Cafe Asia


In Rosslyn, the suburban business area across Potomac River from Washington D.C., is a restaurant named "Cafe Asia." This restaurant serves various Asian dishes; Japanese, Chinese, Korean, Thai, Vietnamese, and so on. Many people of Asian origin swarm there to satisfy their own native taste.
  At the sushi bar in the corner of the restaurant I saw a big guy with his skinhead tied around with a twisted towel making sushi. He asked me in Japanese,
  "From which can I start for you? We have good red-snapper."
  "I'll take it."
  "Something to drink?"
  "Japanese tea, please."
  He ordered Japanese tea to the kitchen in fluent Standard Chinese. I was surprised a little to know there was a Japanese in America who could speak Chinese. However I was more surprised at the color of his eyes when he looked back at me. His eyes are grayish green. I noticed that he was not Japanese.
  "You speak Japanese very well," I praised him.
  "I have lived in Japan for ten years or so," he began to talk about himself. He came from Xinjiang Uigur of China. He left home under the political pressure of the Beijing government and went to study in Japan. Attending a collage in Tokyo, he got a part time job in a sushi restaurant and learnt Japanese there.
  "This is red snapper."
  The sushi which he handed out to me was exactly such as we used to eat in Japan.
  "As I learnt how to make sushi, I can earn to live in the U.S."
He seriously said to me.
  I supposed it might be the habit of the Uigur for him to shave the head. His sinewy upper arms out of the sleeves of his white cooking clothes reminded me of a strong nomadic man. My impression was that he must become a brave fighter in case of emergency.
  Several years before I was wandering along the Guangji Street in Xi'an City of China, where many Uigur people lived, when I felt intensely this street led to "the West", the nomadic world in Central Asia. A Uigur, who had once looked upon Chang'an (current Xi'an), the biggest international city of ancient China, as his final destination, ran east along the Silk Road to Japan of its terminal, skipped it over, and crossed the Pacific Ocean to America.
  This sushi cook who is come from "the West" speaks Uigur, Turkish, Chinese and Japanese. He said to me, "I like Japan."
  Nowadays sushi is an international food. Almost all of the countries in the world have sushi bars. In the U.S, Korean, Chinese, and even Hispanic as well as Japanese make sushi at sushi bars by imitating Japanese style, because Sushi, an alkaline food seasoned with vinegar, is one of the healthiest foods all over the world.
  The nomadic sushi cook explained the reason why he had come to the U.S, by saying, "I wanted to settle down in Japan. But as long as I stay there, I remain a foreigner." His eyes seemed to dream an unfinished dream.

Tuesday, January 29, 2013

チップ戦争



 米国の半導体メーカー最大手のインテルが今週、この一-三月期決算で大幅減益となったと発表した。その理由として「パソコンの需要低迷を反映」などという説明を読むと、「なるほど米国のIT(情報技術)革命も陰りが出て来たようだ。バブルが弾け、株式市場も下げ相場になって、ついに"ニューエコノミー"にも終わりが来たのか」と悲観的になる。
 だが、半導体業界を知る人は、インテルの業績悪化は単純な需要低迷に因るものではないと言う。パソコンの心臓部に使用するCPU(中央演算処理装置)の半導体チップのマーケットが、インテルのライバル企業であるAMD(米国)の安売り攻勢で下落の一途をたどっているのだ。
 かつてCPUの独占ブランドであったインテルの『ペンティアム』が、AMDの代替製品の前に勢いを失いつつある。
 実は昨年末に、デスクトップ用の部品を買って自作パソコンに挑戦してみた。私も値段の誘惑には逆らえず、AMDのブランド、『アスロン』の一ギガヘルツのCPUを二万円ほどで買った。「いやあ、性能は(ペンティアムと)一緒で、値段は半額以下。保証付きです」と、日本橋の電気店の店員は太鼓判を押した。
 今年は、インテルかAMDか、チップ戦争はどちらに軍配が上がるかが注目されている。「昨年以上の値下げ競争が激化して、業界は混迷の度を深めるだろう」半導体業界の人は眉をしかめる。
 だが、翻って、パソコンを買いたい者にとって、この米国のチップ戦争は朗報ではないのか?
米国ではパソコンの過半数がオーダーメードか自作品で、消費者がニーズに合わせてCPUまで自分で選ぶ。パソコンの本体価格は、CPUの性能によるところが大きいので、チップの値下りの結果、値段はより安くなる。
 今やパソコンの利用はインターネットや電子メールだけではない。音楽を聞いたり、映画を見たり、マルチメディア時代を迎えているのだ。高性能パソコンが安く手に入るのは、懐具合の寂しいパソコンおたくにとって、こんな嬉しいことはない。
(2001年4月21日)

宇宙への挑戦



 宇宙開発事業団(NASDA)の宇宙飛行士、野口聡一さんが、来年七月に打ち上げられる米国のスペースシャトルに搭乗することが決った。まずは、おめでとうと言いたい。
 野口さんとは昨年十月、ジョンソン宇宙センターで会った。そのとき、「国際宇宙ステーションの組み立ては、人類の希望を背負っているんです。私は、それに参加できるのならば、どんな仕事でもやります」と、熱っぽく語った。
 彼は平成三年に、東京大学大学院工学系研究科航空学専攻修士課程を終えて、 石川島播磨重工業に入社。平成八年に志願して、NASDAのミッションスペシャリスト(MS)の候補者に選ばれた。
 「候補者」とあくまで注釈が付くのは、米国とロシアだけが現実に有人宇宙船を打ち上げるだけの実力を持つ中で、野口さんの前途は米国の意思に掛かっていたからだ。
 野口さんは、言うまでもなく超一級のエリートだ。だが、東大の同期生が日本で出世コースを歩むのを尻目に、いつ認められるかも分からない宇宙への飛躍に立ち向かった。それは、ちょうど十数億円の契約金の誘惑を振り切って、大リーグに身を投じた阪神タイガースの新庄剛志選手と同じ人生の挑戦なのだ。
 日本のバブルの崩壊以降、米国のトップは内心で、日本人を馬鹿にして来たようだ。ワシントンにいた時のこと、斎藤邦彦前駐米大使は、ある時酒席で、「日本人は決して馬鹿ばかりじゃない」と真情を吐露した。
 日本人は第二次大戦後、アメリカの強い影響下にありながら、常に負けたくないと歯を喰いしばってきた。クリントン政権の八年間、いやというほど経済政策への批判を浴びて、いつか見返してやると思ってきた。
 今や、その願いは思わぬところで実現しつつある。大リーグの、イチローであり新庄だ。そして、もう一つの分野が、米航空宇宙局(NASA)をして「男の中の男」と言わせた若田光一さんら、日本人宇宙飛行士が参加する国際宇宙ステーションの組み立て作業だ。
 その一部となる日本実験棟の呼び名は、野口さんの談話にもあった「きぼう」だ。野口さん、日本人の気概を世界に見せてくれ。
  (2001年4月14日)

Monday, January 28, 2013

英語の勉強法



 「五年もアメリカに住んでいたなら、さぞかし英語は達者でしょう。英語をマスターするにはどうすればよいか、よい方法があれば教えて下さい」
 帰国以来、会う人ごとに尋ねられた質問である。さぞかし英語が達者かどうかはさておいて、英語をマスターしたいというのは、今や国民的課題のようだ。しかも、この課題を私に持ち出した人たちは、いずれも「苦労しないで」という但し書きが付いているのも見え見えなのだ。そこで、お答えします。
 「そんな方法はありません」
 一つの外国語をマスターすることが、いかに大変なことかは、われわれの多くが中学、高校、大学と英語を勉強しながら、モノにならなかった苦い経験からしても明白なのだ。
 「それは方法が悪いからだ」
 いいえ、違います。いかに素晴らしい方法があったとしても、語学の習得には厳しい訓練が要求されるし、訓練を怠れば、一度習得したと思った言葉もあっという間に使えなくなる。
 では、不断の努力を前提として、「よい方法はないか?」と問われれば、「ある」とお答えします。
 「それは、どんな方法?」
 暗唱です。あなたのお持ちの会話教本を、それなりの発音で丸ごと暗唱すれば、米国の空港、ホテル、デパートなど大概のところで、うろたえることはない。今は昔と違って、読み書きより会話重視の英語教育だが、暗唱という、日本の従来からの教育の素晴らしい特質を、ここでもう一度見直すべきだろう。
 翻って、私が在米中に、外国語のうまいアメリカ人に会ったのは、極めてまれだった。彼らにとっては、英語は母国語であり、世界中、英語で押し通せるといううぬぼれがあるからだ。
 無二の親友のスコットは、日本で六年間英語を教えた経験があり、彼の奥さんは日本人だ。そんな彼が、ある日私に尋ねたことがある。
 「どうしたら、日本語をマスターできるでしょうか?」
 私は、聞き返した。
「君はどうして英語をマスターしたの?」
  (2001年4月7日)

国歌と星条旗



「星のきらめく旗」が米国の国歌に指定されたのは、一九三一年三月三日、ハーバート・フーバー大統領のときで、今から八十年余り前である。
 それ以前からも、国歌の扱いを受けていたというが、第二次世界大戦を経て、愛国心の高揚とともにすっかり定着した。大リーグの試合の際にも演奏され、プロの歌手だけでなく、選手自らがマイクを握って自慢のノドを披露することも珍しくない。観客も一同に起立して、唱和する。そこには、国歌を歌うことへの誇りが感じられる。
 国旗である星条旗は、小中学校の社会の教科書に「わが国の象徴である」と書かれ、国旗の掲揚から国旗を前にしての宣誓の仕方まで詳しく説明してある。
 「私は、アメリカ合衆国の旗とそれが表わす国家へ忠誠を誓います。神の元で、ひとつの国は分裂することなく、全ての人に自由と正義がありますように」
 小中学校の各教室では毎朝、始業前に教師も生徒もそろって右手を左胸に当て、各教室に掲げてある星条旗に向かって誓うのだ。ここで言う神は、キリスト教の全知全能の神だ。
 日本では戦後五十年以上経って一昨年八月、君が代と日の丸が、それぞれ法的に国歌と国旗になった。
 だが「戦前、戦中の軍国主義教育の影響で、学校で日の丸を掲げて、君が代を斉唱することに反対する人たちがいて、トラブルが絶えない」と話すと、知り合いのアメリカ人の多くは目を丸くする。そして、「それでは、自分の国に対する誇りを失い、国は崩壊してしまうのではないか?」と反論した。
 ワシントン市内から車で約一時間半、ボルティモアにあるマックヘンリー要塞跡は、「星のきらめく旗」の生まれ故郷、有数の観光名所だ。私がそこを訪れたとき、ビジターセンターの暗いホールに誘われ、歴史映画を見ながら、その由来の解説を聞いた。
 対英戦争の最中の一八一四年九月十三日、ボルティモア市民のフランシス・スコット・キーは、沖合いに停泊していたイギリス艦隊に抑留されていた。艦隊は一昼夜かけてマックヘンリー要塞を攻撃した。
 「砲撃が止んだ翌朝、キーが甲板に上がって遠望すると、要塞は陥落せず、星条旗が昨日と同じように翻っていた。その時の感動を詩に読んだのが国歌になったのです」
 解説者の結びに続いて、「星のきらめく旗」の演奏が流れるともに、側面のカーテンが大きく左右に開かれた。観客から感動のどよめきが起った。ガラスの向うには、かつてこの要塞を飾ったのと同じ巨大な星条旗が、夕日に輝いて翩翻とはためいていた。(2001年3月4日)

Sunday, January 27, 2013

養子縁組



 中国共産党史の研究者であるジョン・ラップ博士(ベロイト大教授)から、遅ればせながらクリスマス・カードの返事が届いた。表には福禄寿の三神の絵が描かれている。「恭賀新禧」とあるのを見て、なるほどと思った。
 中国の旧正月の年賀状だ。
 「私たちは、二人目の養子縁組をすることになり、大変喜んでいます。順調に行けば、この夏、中国に一歳の女の子をもらいに行きます」
 ラップ博士夫妻は、私が最初に渡米した一九九四年以来の友人だ。大変な子ども好きだが、残念ながら子宝に恵まれなかった。知り合った翌年に博士は、中国・武漢出身の一歳の女児を養子に迎える計画を、私に打ち明けた。
 「日本人として、君はこの養子縁組をどう思う?」
 当時、私はこうしたことに全く無知だったから、「日本の習慣では、親戚や縁者から養子を取ることはあっても、外国人、まして違う人種の子供を養子にする話は、聞いたことがない」と答えた。
 さらに、養子縁組の手続費用として約二百万円掛かると聞いて、「それじゃ、まるで人身売買だ」と思わず口をすべらしてしまった。
 ラップ博士は悲しそうな目で見返した。私は後悔した。
 だが、夫妻の決意は固かった。訪中して女児をもらい受け、米国に連れ帰った。エイミーと名づけられたその子は、今年七歳になる。
 実は、こうした養子縁組は、米国では珍しくない。俳優のチャールトン・ヘストンなど著名人にも、実子のほかに、さらに養子を求める場合があるし、肌の色の違う子を交えた家族も、街でよく見掛ける。
 「わが家は娘が一人です」とうちの女房が家族紹介したところ、「じゃあ、少なくとももう一人、生むか、アドプト(養子縁組)すべきだ」と言われた。大きなお世話だが、米国社会では、未来を背負う次の世代を多数育てることは、たとえそれが他人の子であっても、一人前の社会人としての責務と考えられているのだ。そこには、家の存続や血筋を重視する、東洋的な価値観はあまり働かない。
 私が、ワシントンに移った時の隣人に、中央情報局(CIA)の職員がいた。彼にはすでに腕白盛りの男の子が一人いたが、奥さんは二人目を欲しがっていた。夫妻は国外に養子を求め、夏休みを利用して、ニューヨークから飛び立った。
 二週間後、CIA氏が誇らしげに見せに来たのは、なんとロシア産まれの色の白い、実に可愛い女の子だった。冷戦の時代は完全に終わったとしみじみ実感した。(2001年2月25日)

倒産セール



 「大不況のため、一流メーカー・一流問屋の倒産品十万点、処分」
 ある朝、新聞の折り込みに倒産セールの大広告が混じっていた。商品の写真を三百五十枚近くもフルカラーで印刷してある。倒産セールには似つかない、明る過ぎる広告だ。私はさっそく、実態を探るために、女房と連れ立っていった。
 セールは郊外のホテルで、週末に限って行なわれていた。なるほど広告には偽りなく、ブランド物の衣料品や雑貨、食品に至るまで、超安値で売られていていた。
 一つひとつ商品の製造、販売元と値段を見て歩いた。眼鏡の主産地である福井県鯖江市の販売元が放出した老眼鏡がわずか三百九十八円だったり、ST(安全玩具)マークの付いたラジコン・カーが半値だったりした。ただし、ブランド物のほとんどは、中国や東南アジアの製品だ。
 昨年、国内の倒産件数は約一万九千件。負債総額では二十三兆円と前年比七七%増で、戦後最悪の事態となった。その余波が、この会場に押し寄せているのは明らかだ。
 「この会場、バージニアにあったディスカウント・ストアに何だかそっくり」と、女房が言った。
 そうなのだ。ワシントンに隣接したバージニア州には、「エイムズ」という超ディスカウント・ストアがあって、中国をはじめ東南アジア、南米、アフリカで生産された衣料品、雑貨が破格の値段を競っていた。そこと、同じような品揃えだ。
 たとえば、千五百九十八円で売られている中国製工具の百点セットを、私はエイムズで十数ドルで買い、今も愛用している。中国・香港製の時計、アクセサリーが九百八十円から値付けされているのも同じだった。
 米国の消費市場は、世界に門戸を開放しているために、激しい国際価格競争にさらされている。松下電気産業の元幹部は、「アメリカのマーケットは恐い。どんどん値が崩れて行く」と漏らしたことがある。
 景気減速が懸念されながらも、戦後最長の景気拡大を続けている米国でさえ、こうした輸入品を軸にしたディスカウント商法は、物価下落に大きな役割を果たしている。ましてや、消費低迷が続く日本では、デフレを加速させているのは明白だ。
 「あら、これメード・イン・USAじゃないの」と女房が差出したのは、米国では有名ブランドのヨットパーカーだった。私は、タグを見て驚いた。百貨店のそごうのマークと、千円のセール価格が付いている。おそらく、そごうがアメリカから直輸入したもので、昨年末の閉店セールで売り出されたものの、買い手が付かなかったらしい。今回の処分では、五百九十八円にまで値段を下げていた。私はそれを買って、この国際流通戦争に敗れた商品の最後の吹きだまりを後にした。(2001年2月18日)

カフェ・アジア


「カフェ・アジア」はワシントン市内からポトマック川を渡ったロズリンというビジネス街にある。和食から中華、韓国、タイ、ベトナム、アジアの料理ならば何でも食べさせるから、アジア各国出身の人々で賑わっている。
 その一角にすしバーがあり、丸坊主にねじり鉢巻の、ハンサムな大男が、すしを握っていた。
 「お客さん、何から握りますか?タイのいいのがありますよ」
 「じゃあもらおうか」
 「お飲み物は?」
 「お茶でいいよ」
 彼は調理場に向かって、流暢な北京語で「日本茶」を頼んだ。私は、アメリカに中国語を話す日本人がいるのに少し驚いた。
 だが、振り返った彼の眼を見て、更に驚いた。瞳が灰緑色だ。あれ、日本人じゃないんだ。
 「日本語がうまいね」と私は褒めた。
 「ええ、日本に十年ほどいましたから」と男は話し始めた。彼は新彊ウィグルの出身で、北京政府の弾圧に遭い、故郷を離れて日本に留学した。東京の大学に通いつつ、すし屋でアルバイトをしながら日本語を習得したという。
 「はい、タイどうぞ」
 差し出されたタイの握りは、正真正銘の日本のすしだった。
 「すしを握る技術のおかげで、アメリカで生活できるのです」と彼は真顔で言った。
 彼が頭を剃って丸坊主にしているのは、たぶんウィグル男性の習俗だろう。白い割烹着の袖からのぞく二の腕には、騎馬民族の隆々たる筋肉が盛り上がっていた。一朝事あらば立ち上がる、そういう気概が秘められているようだった。
 私が数年前、ウィグル人が多く住む中国・西安の広済街を歩いていた時、この通りの果てには西域があると、強く感じた。かつての国際都市・長安を目指したウィグル人は、シルクロードの終着点の日本を飛び越え、海を渡ってアメリカにやって来たのだ。
 西域から来たすし職人は、ウィグル語のほかに、トルコ語、中国語、日本語を話せるが、「日本が好きだ」と言った。
 すしは今や「SUSHI」である。すしバーのない国はほとんどない。米国では、日本人だけでなく、韓国系や中国系、ヒスパニックまで見よう見まねですしを握っている。なぜなら、すしは、酢を利かしたアルカリ食品であり、世界的に見てもかけがいのない健康食だからだ。
 だが、西域のすし職人は渡米した理由を語った。
「私は日本に永住したかった。しかし、何時まで経っても、私はガイジンのままなのです」。彼の目には夢見るような光が宿っていた。
             ◇                
 私はワシントン特派員として四年間を含め約五年半の在米生活を経て再び大阪に舞い戻って来た。このコラムでは、私の実感した日本とアメリカを伝えたいと思う。(2001年2月4日)