「カフェ・アジア」はワシントン市内からポトマック川を渡ったロズリンというビジネス街にある。和食から中華、韓国、タイ、ベトナム、アジアの料理ならば何でも食べさせるから、アジア各国出身の人々で賑わっている。
その一角にすしバーがあり、丸坊主にねじり鉢巻の、ハンサムな大男が、すしを握っていた。
「お客さん、何から握りますか?タイのいいのがありますよ」
「じゃあもらおうか」
「お飲み物は?」
「お茶でいいよ」
彼は調理場に向かって、流暢な北京語で「日本茶」を頼んだ。私は、アメリカに中国語を話す日本人がいるのに少し驚いた。
だが、振り返った彼の眼を見て、更に驚いた。瞳が灰緑色だ。あれ、日本人じゃないんだ。
「日本語がうまいね」と私は褒めた。
「ええ、日本に十年ほどいましたから」と男は話し始めた。彼は新彊ウィグルの出身で、北京政府の弾圧に遭い、故郷を離れて日本に留学した。東京の大学に通いつつ、すし屋でアルバイトをしながら日本語を習得したという。
「はい、タイどうぞ」
差し出されたタイの握りは、正真正銘の日本のすしだった。
「すしを握る技術のおかげで、アメリカで生活できるのです」と彼は真顔で言った。
彼が頭を剃って丸坊主にしているのは、たぶんウィグル男性の習俗だろう。白い割烹着の袖からのぞく二の腕には、騎馬民族の隆々たる筋肉が盛り上がっていた。一朝事あらば立ち上がる、そういう気概が秘められているようだった。
私が数年前、ウィグル人が多く住む中国・西安の広済街を歩いていた時、この通りの果てには西域があると、強く感じた。かつての国際都市・長安を目指したウィグル人は、シルクロードの終着点の日本を飛び越え、海を渡ってアメリカにやって来たのだ。
西域から来たすし職人は、ウィグル語のほかに、トルコ語、中国語、日本語を話せるが、「日本が好きだ」と言った。
すしは今や「SUSHI」である。すしバーのない国はほとんどない。米国では、日本人だけでなく、韓国系や中国系、ヒスパニックまで見よう見まねですしを握っている。なぜなら、すしは、酢を利かしたアルカリ食品であり、世界的に見てもかけがいのない健康食だからだ。
だが、西域のすし職人は渡米した理由を語った。
「私は日本に永住したかった。しかし、何時まで経っても、私はガイジンのままなのです」。彼の目には夢見るような光が宿っていた。
◇
私はワシントン特派員として四年間を含め約五年半の在米生活を経て再び大阪に舞い戻って来た。このコラムでは、私の実感した日本とアメリカを伝えたいと思う。(2001年2月4日)
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